Something for you     ― Matsuki side ―


 たぶんそれは勘違いかもしれないし、事実を自分の都合の良いように塗り替えた記憶の片鱗で、そうあって欲しい場所で燻るしか価値の無い代物だと思う。
 だって何の目標も持たず、ただふらふらと毎日を誤魔化して生きてきた人間には、高校生活なんて無味無臭の時間の流れに過ぎず、後先考えず輝いていた奴等を横目に、あの頃はもう大人になる準備をしていたから。
 だから、勘違いとしか言いようがなくて。
 きっと心に秘めた願望が俺に見せた幻影だと――

 「二ノ宮先生、好きなんです」
 「ごめんね。でも君の気持ちには応えられない。
 代わりと言ってはなんだけど、君が卒業するまでナイススティック食べるの我慢するよ」
 「でも、それって先生が一番好きなパンでしょ?
 購買のナイススティックをいつでも自由に食べられるから光陵学園の先生になったって、自己紹介のとき言ってたよ」
 「うん、そう。ちょっと甘めのバター味が、気に入っているんだよね。
 でも我慢させて?何も出来ないけど、君のために何かしたいから……」

 光陵学園。昔からここは、中高通して自由な校風が自慢の私立にしては珍しく生徒の自主性を重んじる学校だった。
 生徒手帳に記載されている校則はたった一文。
 「服装は華美にならないように」
 過保護な親はこんな緩い校則で我が子が非行に走るのではと心配するだろうが、実際に生徒として通ってきた俺には良く分かる。子供は大人が思うほど愚かではない。
 理不尽なルールがあるから反発するのであって、理に適ったものであれば逆らわない。生きる時間が無限だと錯覚していても、高校生活に限りがある事は分かっている。
 中には髪をとんでもない色に染めたり、原型が分からなくなるまで制服を改造したりする生徒もいるが、それも高校二年までのこと。ちゃんと彼等は自分達の進路を考えて、受験の始まる時期になれば自主的に正しい服装に着替えてくる。
 教師側もそれを心得ていて、生徒を叱る事はしない。せっかく与えられた自由時間を無意味な論争につぎ込みたくはないし、無駄な労力は使わない。

 自由な校風で放し飼いにされた生徒達は、それぞれが限られた自由時間を好き勝手に生きている。
 休み時間には美術室にこもってキャンパス一杯に意味不明な絵を描く奴、調理室を勝手に使って豪華なランチを振舞う奴、毛布持参で体育館のマットで昼寝する奴、図書室の棚に自分の本を紛れ込ませレンタル料をせびる奴。
 こんなに自由にさせてもらえる学校だから、部活は何処も強い。
 陸上部、テニス部は共にインターハイへ出場した事もあるし、昔は剣道部も強かった。俺が辞めるまでは――



 「だから、なんで二ノ宮が剣道部を辞めなきゃならないんだよ!?」
 答えに詰まった俺は、わざと翔太の質問をはぐらかした。
 「学校の屋上ってさ、何にも無いのにどうして居心地が良いんだろうね?」
 「冗談言っている場合じゃないだろ!」
 案の定、直球勝負のこいつには俺がふざけていると映ったようだ。世の中には答えたくない質問があるって事を、この何にでも誠実な男はまだ知らない。
 「いいよね、屋上から眺める夕日。青春って感じがする」
 「二ノ宮、いい加減にしろよ。俺は本気で心配して……!」
 翔太の腕が俺の胸倉をぐいっと掴んだ。
 身長185センチの翔太は167センチの俺から見れば立派な巨漢で、本人は真剣に話し合うつもりでやった事でも、やられる方は窒息しそうになる。苦しい。

 軽々と持ち上がった俺の身体を、翔太が慌てて下へ降ろした。
 本当なら怒る場面なんだろうけど、この期に及んで嬉しかった。咳き込む俺を心配そうに見つめる黒い瞳。ごしごしと不器用な手つきで背中を擦る逞しい腕も。
 苦しくて、嬉しくて、やっぱり苦しい。
 「なあ、二ノ宮?俺達、親友だろ?
 小学生から剣道始めて、中等部でも高等部でも、ずっと一緒にやって来たじゃないか?今さら隠し事なんてするなよ。
 悩みがあるなら教えて欲しいし、お前の為なら何だって出来る」
 「じゃあ、牛乳鼻から飲んで目から出して」
 「おま……!」
 「嘘、冗談」

 浅黒く日焼けした翔太の顔が、情けなくひん曲がった。屋内活動が基本の剣道部で、何故彼だけが日焼けしているかと言えば、それは部活が休みの日でも自主的にトレーニングをしているからで、そこからして違う。
 俺はそんなに好きになれない。剣道に関しては。
 だけど、そろそろ理由を言わなきゃ、こいつ本気で怒るだろうな。
 「先鋒、飽きたんだ」
 「えっ!?」
 「何でも出来るなら、変えてくれる?
 先鋒以外なら何でも良いよ。次鋒、中堅、副将……大将でも?」
 我ながら意地悪な質問だ。今現在、大将として剣道部を引っ張っている奴に「大将を譲れ」と言っているのだから。第一いくら部長でも、そう簡単に変えられるわけがない。
 早くギブアップしろ。俺のことなんか放っておいて、さっさと部活へ戻れよ。
 「お前が本当にそうしたいのなら、俺から監督に頼んでもいい」
 本当はすごく困るくせに、なんであっさりオーケー出すんだよ。しかも真顔で。
 「バッカじゃないの?」
 「なんでだよ?」
 「『無敗の先鋒』と呼ばれた俺が、今さら大将なんて出来るかよ」
 「ああ、そうか」
 てっきり怒鳴りつけてくるかと思ったけど、俺の無茶苦茶な理由を翔太はバカ正直に聞いて、うんうんと相槌まで加えている。まったく何処まで馬鹿なんだ。

 ばつが悪くなった俺は、屋上から夕焼けを眺めるふりをしながら、そそくさと翔太に背を向けた。
 「俺は二ノ宮が、『無敗の先鋒』がいてくれたから、今までやって来られた」
 背後から聞こえてくる少しかすれた低い声は、持ち主の性格そのままの誠実さが感じられる。迷いも嘘もなく、温かくて真っすぐで、だから痛い。
 「他の連中は『大将が一番プレシャーかかる』って言うけど、俺は先鋒の方がよっぽど大変だと思う。
 相手チームに最初に突っ込んで行かなきゃならないし、『最低でも引き分けで帰って来い』って、監督にいつも言われているだろ?
 それって凄いプレッシャーだと思うんだよな」
 さっき翔太に触れられた箇所が苦しかった。胸倉じゃなくて、背中の方が。
 「ごめん、翔太。もう駄目なんだ」
 「何が?」
 「限界」
 「二ノ宮、もしかして何処か具合が悪いのか?前に痛めた肘か?」
 翔太が俺の肩を掴んで自分の方へ向き直らせようとした。但し今度は力を加減したらしく、おかげでもっと苦しくなった。
 いいや、違う。翔太のせいじゃない。俺がちゃんと向き合う事を拒んだ為に、体の向きは翔太、顔は屋上のフェンスと不自然な姿勢になったから。
 息が苦しい。背中が熱い。外はこんなに気持ちのいい秋風が吹いているのに。

 「医者には診せたのか?」
 掴んだ側が左肩と気付いて、翔太がまた慌てて手を離した。
 本当は違うけど、そういう事にしておこうかな。少なくとも友達でいられるし。
 だけど俺の口をついて出たのは子供の頃からずっと隠し通してきた真実で、それは自分でも驚く程あっけらかんとした口調で告げてしまった。バカ正直が肩から感染したんだと思う、きっと。
 「ホモだから」
 「へっ?」
 「知らない?男が男を好きになる奴を『ホモ』って言うんだぜ」
 「それぐらい知っているよ。でも誰が……?」
 「俺が」
 「えっ?」
 「だから俺は宍倉翔太に惚れているの」
 「お、俺?二ノ宮が俺に惚れているって……どういう?」
 「言葉どおりの意味」
 「男としてじゃなくて?」
 「男としてだけど、そうじゃない。LOVEの方だ。
 気持ち悪いだろ?」
 「いや……」
 まったく何処までバカ正直な奴なんだ。否定しておいて無言になったら、それは肯定しているのと同じだって。
 「無理するなよ。男が男を好きになるなんて変だろ?」
 「いや……でも逆だと思っていたから。俺、嫌われているって思っていたから」
 「どうして?」
 「俺と心が付き合うって言った時、二ノ宮すっげぇ反対しただろ?
 兄貴として妹の事を心配するのは当然なんだろうけど、本当は信用されていないのかなって、正直思った。
 実際、俺はお前ほど頭良くないし、短気だし、剣道以外で褒められた事ないし」
 「俺はそんな妹想いの出来た人間じゃない。
 それに兄貴と言っても双子だから」

 この俺、二ノ宮眞月と心は、双子の兄と妹。二人合わせて「真心」になるという両親の願いも虚しく、兄貴の俺は自分の気持ちに嘘をつきっぱなしの人生で、本心なんて絶対に見せない捻くれ者で、しかも親友と妹の仲まで裂こうとしている卑怯な人間だ。
 だけど理屈じゃない。俺と同じ顔した女が翔太の傍にいるだけで、理性なんて吹っ飛んじまう。
 心が高校卒業したら家を出て一人暮らしするって聞いた時も、俺は妹想いの兄の振りをして全力で応援してやった。これ以上、つまらない女が翔太の周りをうろつかないように。
 「こんな奴が同じ部にいるなんて気持ち悪いだろ? だから辞めた。
 翔太の実力を嫉んでちょっかい出してくる先輩達も全員引退したし、これからお前が部長として好きなように剣道部を作っていけばいい」
 「そんな事ねぇよ!」
 「どっちが?気持ち悪い方、それとも好きなように剣道部を作る方?」
 「どっちも。俺だけじゃ剣道部を引っ張るなんて無理だし、それに気持ち悪いとも思っていない」
 「嘘」
 「本当。ただ正直よく分からない」
 「うん」
 そうだと思う。俺だって良く分からない。自分がどうしたいのか。どうありたいのか。

 五分ほど経ってから、翔太が「気持ち悪くない理由」についておずおずと語り出した。ほんと、律儀な奴。
 「中一の時、俺、面かぶったまま吐いたことあったろ?練習きつくて?
 あん時、皆が引いたのに、二ノ宮だけ駆け寄って一緒にゲロの始末してくれた」
 「あったよね、そんなこと」
 「ああ、もっと前からだ。そうそう、小学校の五年だっけ?
 俺がクラスの連中に『給食の牛乳を鼻から飲んで、目から出す』って宣言した時もさ。
 失敗して床に牛乳ぶちまけて。
 他の連中は雑巾臭くなるからって知らん顔したのに、お前だけは一緒に拭いてくれた」
 「翔太?それは要するに、俺は面の中のゲロや、牛乳拭いた後の雑巾並みに気色悪いって言いたい?」
 「ち、ちが……!」
 「分かっている。頑張って理解しようとしてくれているんだろ?
 でもさ、お前に頑張られるほうが辛いんだ。だから、なかった事にしてくれないか?」
 「なかった事って?」
 物凄く不謹慎だと分かっているけど、この時の翔太が無性に可愛く見えた。今から俺が言う事を想像して、酷く怯えたこいつの顔が。だけど、もう消去しなくちゃ。最初から存在しなかったんだからさ。お前が望む友情なんてヤツは。
 
 観念して、俺は翔太の方へ向き直った。
 「俺達の時間全て。リセットするんだ。
 これからは単なるクラスメートってことで、ヨロシク」
 「なんで、そんな事言うんだよ?なんで……」
 やっぱり泣かしちゃったか。ゴメン、翔太。
 でも泣き顔も嫌いじゃない。どちらかと言うと好きかも。道場で皆に見せる笑顔より、独り占めできる泣き顔の方が好きなんて、やっぱり俺、おかしいよな。
 本当の理由はこれ。日増しにおかしくなる自分に耐えられないから。今以上に狂った自分を見るのが嫌だから。
 「他に方法はないのかよ?俺に出来るのは、なかった事にするだけなのかよ?」
 「出来れば心には黙っていて欲しいかな。ホモの兄貴なんて嫌だろうし、高校卒業したら別々に暮らすだろうから、それまでの間」
 「やだ!」
 「翔太?」
 「やだよ、二ノ宮。なかった事なんて出来るかよ。
 今のままじゃ駄目なのかよ?一緒に朝練行って、教室戻ってメシ食って稽古して。ずっと一緒だったじゃないか?」
 「限界って言ったろ?」
 「何にも出来ないのか?俺には、何にも出来ないのか!?」
 繰り返された質問は二回とも涙声だったけど、二度目の方が翔太らしいと思った。真っすぐで、力強くて、嘘がなくて。
 だから俺は最後に一つだけ、ずるいリクエストをした。自分の為だけのリクエスト。
 「ねえ、翔太?だったら頼みがあるんだけど?」
 「なに?」
 「今度から俺を呼ぶときは名前で呼んで欲しい。二ノ宮は永久欠番って事で、どうかな?」
 「それだけ?それだけで二ノ宮はいいのかよ?」
 「うん、その方がいい」
 「そうなんだ」
 失恋したのは俺なのに、この時の翔太は酷くがっかりしたように見えた。親友を失うとか、告白された内容にショックを受けたとか。色々理由を考えたけど、どれも正解とは思えなかった。
 強いて言えば、二人とも同じ顔をしていたかもしれない。
 目の前で大切なものが消滅した瞬間を見届けた時にする魂の抜けた顔。漠然とそんな気もしたけど、だとしたら俺の願望が見せた幻に違いない。幻影ってヤツ。だって翔太にとって俺は魂を費やすほど大切なものであるはずがないから。

 結局、翔太が俺を「眞月」と呼ぶ事は無かった。どうしても声をかけなきゃならない時は、「ねえ」とか「ちょっと」で済まされた。
 後で妹から聞いて分かった事だけど、ガキの頃、俺が「眞月って名前は女みたいで嫌だ」と文句言ったのを翔太はずっと覚えていて、それで苗字で呼ぶようになったらしい。当の本人はすっかり忘れて、名前で呼ばれる事を秘かに望んでいたのに。
 親友だった二ノ宮と、単なるクラスメートの眞月と。二人の俺がアイツの中に存在して、どちらか好きな方を思い出にしてくれればなんて、都合の良い事を願っていたのに。
 もう一つ、分かった事がある。
 高校を卒業して、妹が家を出る前日に聞かされた呆れた事実。あの二人、翔太と心は別れていた。それも俺が告白した直後に。
 彼女の話によると、突然翔太から一方的に「別れよう」と言ってきて、理由を聞いても答えてくれず、卒業するまで別れた事を誰にも言わないでくれと土下座までしたらしい。

 俺はあの日、屋上で見た空を思い出した。
 本当はあの時、夕日なんか見えていなかった。青春ドラマに出てくるようないかにも夕焼けっていうオレンジでもなくて。夕暮れになる一歩手前の中途半端な青空が広がっているだけだった。
 どちらともつかない二つの色。もうすぐ役目を終える儚い水色と、遠慮がちに染まった淡い茜色と。不完全なその空を赤とんぼがふらふらと飛んでいたのを覚えている。
 それを俺は心地良いと思ったんだ。
 妹から話を聞いてすぐに連絡を取ろうとしたけど、翔太は剣道の道へ進むために武道専門の全寮制の大学へ移った後で、携帯の番号もアドレスも変えられていた。
 仕方ないよな。自分から言い出した事だから。リセットしようって。



 あの時の空に比べれば、今日はオレンジ色が強すぎる。そう思うのは、俺の立場が変わったからなのか。
 「ごめんね。でも君の気持ちには応えられない。
 代わりと言ってはなんだけど、君が卒業するまでナイススティック食べるの我慢するよ」
 「でも、それって先生が一番好きなパンでしょ?
 購買のナイススティックをいつでも自由に食べられるから光陵学園の先生になったって、自己紹介のとき言ってたよ」
 「何も出来ないけど、君のために何かしたいから。
 負担にならなければの話だけど?」
 「う〜ん、それはちょっと重いかなぁ」
 「そう?」
 「だって、そんな事されたら忘れられなくなっちゃうでしょ?」
 「そっか。そうだよね」
 さすが現代っ子。リセットの仕方は俺より上手い。
 「ねえ、二ノ宮先生?だったら、私が新しい恋を見つけるまでってことで、どう?
 彼氏が出来たら、最初に先生に報告するから一緒に喜んで」
 「分かった。君が新しい恋を見つけるまで、先生はナイススティックを我慢する。これでいいかい?」
 「ありがとう、先生。でも、ちょっとだけ勘違いしそうになっちゃった」
 「何が?」
 「だって一番好きな物を諦めるって、本当に大切な人の為じゃないと出来ない事でしょ?
 ナイススティックよりも上に思ってくれて嬉しかった。
 じゃあね、先生。バイバイ!」

 パタパタと元気良く遠ざかる足音に、俺は救われた。ナイススティックが復活する日もそう遠くはないだろう。
 「しばらくはミルクスティックで我慢するか」
 こんな日はもう少しここにいて黄昏(たそがれ)ていたいけど、上着のポケットが騒がしくて出来そうにない。剣道部の生徒達が、なかなか顔を出さない顧問に痺れを切らしているらしく、携帯電話の振動が鳴り止まない。
 「まったく、練習メニューぐらい自分達で考えろって」
 屋上を立ち去る前、一度だけ振り返った。あんなに自己主張の激しかったオレンジ色は影を潜め、たおやかな夕闇が辺りを薄紫色に染めていた。




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